越前府中塾とは 本文へジャンプ
日本海の要 越前の国府


国は大・上・中・下国の4クラスに分けられました。日本海側(北陸・山陰道)で「大国」は越前国だけです。
中央政府は越前国を日本海側の中心に位置付け、国内外の護りからも越前国に期待していたことが伺われます。越前国にやって来た国司の多くは、都に戻れば政治の中枢で活躍していることからも重要な国であったことがわかります。都から来た国司は「越前の国府」で政治をしました。
明治2年10月、平安時代に流行した歌謡『催馬楽』(さいばら)の「見知乃久知、太介不乃己ふ」(みちのくち、たけふのこふ)(道の口、武生の国府)から名をとって、中世・近世に使用してきた「府中」を「武生」(たけふ)と改称しました。
武生には、国分寺・総社・御霊神社等の建物、北府などの地名、府中城遺跡から出土した墨書土器「国府」などの埋蔵文化財からも越前の国府は武生にあったことは確かであります。
武生は越前のみならず日本海側沿岸国の中心として、古代から中世にかけて政治・経済・文化・交通などの中心として栄えたのです。

紫式部が住んだ町


 長徳2年(996年)、国司など地方官を任ずる除目で、紫式部の父(藤原為時)は淡路守に任じられます。しかし、学  者で漢詩人であった為時は淡路では自分の能力を発揮できないことを歎いて天皇に哀訴し、越前守に任じられま  す。
 越前の敦賀は中国人などが集る国際都市でしたから、越前であれば為時は力を発揮する場があったのです。越前 に赴任する為時一行は大津で船に乗り、琵琶湖を南から北端の塩津に向かいます。塩津から陸路を愛発山・敦賀・ 木の芽峠を経由して越前の国府に入りました。
 紫式部の生涯でただ一度都から離れての生活は「たけふ」だけでしたから、その経験は紫式部の生活の大きな影響を与えることとなります。
 紫式部が暮らしていたと考えられる国司館の位置は分かっていません。


町衆の力

 府中(武生)には国府時代から育まれた諸産業の優れた技術があります。それに加えて南北朝時代に千代鶴国安(ちよづるくにやす)によって伝えられた打刃物技術は、「越前打刃物」として江戸時代には日本一の生産を誇るまでになります。
北陸道と西街道(馬借街道)の接点で交通の要衝である府中は、交易も盛んでした。1543年の府中祭りは見物した京都の学者が感心するほどの賑わいでした。府中には鎌倉・室町時代に創建された多くの寺院が集まっています。
これも地理的・人的条件に恵まれた地域柄だったからと考えられています。このように府中は政治・経済・文化・交通の中心地で、府中の繁栄を支えた府中町人(町衆)の力の大きさを物語っていると言えます。